法華寺について

現住職

小松 靖孝
S26年 苫小牧市沼ノ端にて生誕
S49年 立正大学 仏教学部 宗学科 卒業
S50年 第15期 布教研修所 修了
S51年 開教師
S54年 ロサンゼルス米国別院
S56年 加行所第初行 成満
H13年 法華寺住職 現在に至る

法華寺の沿革

法華寺の端緒たんしょを開かれたのは、山梨県出身の塩島顗沾ぎでん上人です。
顗沾上人は、昭和七年頃、苫小牧市字沼ノ端に来住され、教田きょうでん開拓に努力されました。

そして昭和十一年、高橋日通にっつう上人を教導きょうどうと仰ぎ、『日蓮宗広宣寺法務所こうせんじほうむしょ』として発足するに至りました。
塩島顗沾上人は、日夜、法華経流布るふに奮闘されましたが、ときに日支事変にっしじへん大東亜だいとうあ戦争、そして敗戦と続く、公私ともに苦難の時代でした。
やがて顗沾上人は昭和二十四年、札幌市妙典寺みょうて゛んじに栄転されることとなりました。

時に留萌管内小平村るもいかんないおびらむらに「広宣寺布教所」を開設し、新寺建立しんじこんりゅうを目指して教線きょうせん開拓に奮闘していた、師匠、小松智元上人は、ご師範しはん高橋日通上人のめいによって、顗沾上人のあとを継ぎ、昭和二十四年五月に赴任ふにんし、お檀家二十七戸、ご信者三戸だけという沼ノ端での寺院生活を開始いたしました。

「明治三十一年、室蘭線が敷設ふせつされ、平坦で広大な勇払原野のまっただ中に、ぽつんと駅舎が建ったのが、沼ノ端の誕生でした。
将来の発展を見こした人々が入地し、駅前を中心にして住居が建ち並び、明治四十年頃になって、一応、市街の形態を整えたようです。
それ以来鉄道の変遷へんせんに左右されながら、幾度となく盛衰を繰り返していました。

冬の寒さは厳しく、支笏湖方面から吹き寄せる雪を伴わない冬の季節風は、あらゆるものを凍らせてしまいます。
この気象条件と火山灰地に湿地という悪条件が重なりあって、開拓をかたくなに拒否してきたため、東西に二十余キロ、南北二十キロの間に家一軒ないという、北海道でも珍しい不毛の地。 その遮るものとて無い荒涼とした原野の中に、わずか百五十戸ほどの街並みという小さな村落でした。

乏しい衣食住を、かつての北海道の農民が、屈服することを知らぬ開拓者魂で克服したように、開教魂かいきょうだましいで頑張り通されました。
こうして開基かいきを塩島上人に、師範高橋日通上人を開山かいざん第一世と仰ぎ、師匠、小松智元が第二世となり、昭和二十五年十一月十五日に『一耀山いちようざん法華寺』と「寺号公称じごうこうしょう」をすることができました。


本堂外観

看板

茶室

ガーデンルーム

ガーデンルーム

ガーデンルーム

納骨堂

納骨堂

納骨堂